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漢方の歴史。なぜ漢方と呼ぶの?江戸時代に中国から伝わり日本で独自発展した漢方

漢方と蘭方

2千年以上前に中国で成立した中医学。その後日本に伝来し、長い歴史の中で独自に発展し、 現在のスタイルになっています。漢方と呼ばれるようになったのは、江戸時代のこと。

オランダより長崎に医学が伝来しました。このとき、オランダ医学を「蘭方」、 それまでの医学を「漢方」と呼ぶようになりました。つまり漢方という呼び方は、日本独自のものなのです。

 

 一方、中医学とは中国の伝統医学のこと。 中国で発展しました。 現在も中国で行われている中医学と日本で取り入れられている漢方では、実は呼び方だけでなく、 実は考え方や診察、治療において異なります。なので日本式の漢方を「日本漢方」と読んだりして区別することもあります。

 漢方と似たような意味をもつ言葉に「東洋医学」「中医学」といった言葉があります。 明治時代から東洋医学と呼ぶようになりましたが、意味としては西洋医学以外の医学。なので、場合によっては漢方と同様の意味で使われることもありますが、 韓国の韓医学やインドのアーユルヴェーダ、チベット医学なども広く含まれます。

 

日本には5~6世紀ごろに伝来し明治時代まで、漢方は日本の医学の主流でした。

 中医学の起源は、紀元前1300年以上前。その後、中国文化が栄えた漢時代(紀元前206~紀元220年)に、 中医学の三大古典といわれる『黄帝内経(こうていだいけい)』『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』『傷寒論(しょうかんろん)』が 記されます。

 日本に中医学書が伝来したのは、5~6世紀ごろといわれています。仏教と同時に朝鮮半島を経由して、伝来しました。 古墳時代の5世紀には、天皇の病気を治すために新羅(朝鮮半島にあった国家)から韓医学の医師である韓方医が招かれたという記述が残っています。 その後、遣隋使や遣唐使によって、中国と直接の往来が始まり、当時の中国で最先端であった医学知識や医学書がもたらされたのです。

明治時代に西洋医学が主流になるまで、漢方は日本の主流医学でした。  

2千年以上前に中国で成立し日本に伝来して独自に発展。

日本の漢方は明治時代以後、一時衰退しますが、西洋医学では治せない病気であっても、 漢方なら治療できるということで、日本でも今見直されています。

漢方はもともと中国の医学ではありますが、日本で独自の発展したものです。 このため、現在も中国で行われている中医学と日本で取り入れられている漢方では、 呼び方だけでなく、考え方や診察、治療において異なる面があります。。

現在、日本の漢方専門医にも、日本漢方を学んだ医師と中医学を学んだ医師がいます。 診察方法や処方などに違いが出ることもあります。

西洋医学で見えないものをみる漢方(中医学)

西洋医学では治せないような病気であっても、漢方なら治療できる(未病を治す)

 西洋医学が主流になっていくなかで、日本・中国でも、中医学・漢方は一時衰退します。 しかし、西洋医学では治せないような病気であっても、漢方なら治療できる(未病を治す)ので、見直されています。

日本でも中国でも今また見直され、現在ではWHOも認め、日本の医学部でも必修科目になっています。

昔の日本で漢方治療を受けられるのは、身分の高い一部の人だけだった漢方  。 中国で2千年以上前に生まれた漢方は、いつごろ、どのようにして、日本で独自の発展をとげたのでしょうか。まとめてみます。

平安時代(984年) 現存する日本最古の医学書『医心方(いしんほう)』が編纂(へんさん)。
安土桃山時代 医学校の設立。織田信長や豊臣秀吉の主治医でもあった曲直瀬道三(まなせどうさん) が医学書『啓迪集(けいてきしゅう)』(1574年)を執筆。 当時の戦国大名たちは、曲直瀬をはじめとした名医をお抱えにしていたといわれています。 。
江戸時代
江戸時代  漢方が日本独自に大きく発展した江戸時代。一般の人たちにも教養が身につき、 多くの医学書が出版されます。また、中国清朝の医学が発展しなくなったこともあり、独自化していきます。
漢方の流派
「後世派(ごせいは)」 当時の中国の伝統医学をもとにした理論重視の後世派。
「古方派(こほうは)」 最古の処方集『傷寒論』を理想とする実証主義の古方派(こほうは)
折衷派 古方派と後世派の中間である「折衷派」。

古方派の吉益東洞(よしますとうどう)は、現代の日本漢方でもとり入れられている「方証相対(ほうしょうそうたい)」 という概念をつくります。

 江戸時代の末期から明治時代にかけて多くの医学書を記し、たくさんの門人を抱えて力を持っていた漢方医が、浅田宗伯(あさだそうはく)です。 「傷寒論を重んじた浅田宗伯流が、現代の日本漢方にもつながっているといえます」

江戸時代に大きく発展した「日本漢方」。中国の医学書を基盤としつつ、当時の日本人にはなじまない食品や治療法についての記述は省いたり、 生薬数が少ない処方を選んだり、独自に簡略化、実用化しています。

■日本漢方は明治時代以後、一時は衰退するも医師たちの尽力により復活へ

1894(明治27)年に浅田宗伯が亡くなったことなどを機に、日本漢方は急速に衰えました。

しかしこのように復活していきます

 

1910年 1910年に和田啓十郎(わだけいじゅうろう)が『医界之鉄椎(いかいのてっつい)』出版。
1927年 1927年に湯本求真(ゆもときゅうしん)が『皇漢医学(こうかんいがく)』を出版。
1967年 大塚敬節(おおつかけいせつ)や矢数道明(やかずどうめい)らが漢方復興のために尽力。 当時の厚労省に処方集を提出するなどして、1967年に4処方の漢方エキス製剤が健康保険の適用となる。
1976年 1976年には41処方が適用となり、医療現場で広く漢方が取り入れられるようになる。
一時は低迷・衰退させられそうになった中医学ですが、  中国も1949年に中華人民共和国が成立すると、 毛沢東が国家をあげて漢方復興プロジェクトを推進します。 各地に中医学の専門大学がつくられ、教育や研究も進み、現代にも続く中医学が確立されていったのです。 2023年にはWHOに西洋医学と同等の医学として認められます。

西洋医学と漢方の違いとは

西洋医学と漢方はどのように違うのでしょうか。

西洋医学では検査で異常があれば治療をします。しかし 冷えや疲れやすいなどの検査数値に表れない症状は、治療の手段がありません。

漢方ではたとえ検査で異常がなくても本人に自覚症状で不調があれば、治療の対象になります。

このため、 「冷え」や「疲れやすい」といった西洋医学では病気とはいえないような症状も、治療の対象となるのです。

漢方はからだ全体のバランスを整える理論

 漢方はからだ全体のバランスを整える理論です。その人が本来もっている自然治癒力を高め、病気になりにくいからだをつくることを目標とします。 不調があるということは、バランスが崩れている証拠。漢方ではその原因を突き止めてバランスを中立にしていきます。 こういう理論のため、どんな症状でも対応が可能なのです。

漢方治療は薬以外に・・・薬膳・鍼灸・気功など・・・

 漢方治療は、漢方薬での治療だけではありません。 漢方治療は、鍼灸(しんきゅう)、気功、按摩(あんま)(指圧など)、薬膳、養生などを含みます。

4つの方法で体質を診断する

望診(ぼうしん)、聞診(ぶんしん)、 問診(もんしん)、切診(せっしん)の四つの方法

 漢方では「四診(ししん)」という特有の方法を用いて診察します。望診(ぼうしん)、聞診(ぶんしん)、 問診(もんしん)、切診(せっしん)の四つの方法です。中医学と日本漢方ではその方法に違いがあります。

腹診するのが日本漢方

最も大きく違う点は、「腹診(ふくしん)」です。(切診の一つ) おなかに触れて、腹壁の緊張度、硬い場所や痛い場所により、 体質判定し、処方を選ぶうえでの指標にします。

腹診は、漢方の三大古典の一つ『傷寒論』にも出てくる基本的な診察方法なのですが、 日本では「万病は腹に根ざす」として特に重視し、独自に発展させました。

触診をしない中医学患者の訴えや生活習慣、「望診」「切診」を重視

 一方、現在の中医学では、腹診はほとんど用いられていません。 儒教の影響で他人におなかを見せることは下品なことと嫌うようになり、廃れたといわれています。 その半面、 舌や脈は微妙な変化が現れやすく、病気の原因や性質を細かく診るのに役立つ、 望診の一つである「舌診(ぜっしん)」や切診の一つである「脈診(みゃくしん)」を重視していますます。

なのでお腹を触られたら日本漢方スタイルですね。

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